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 館の中、彼女の憂いは美しかった。ほたほた流れる雫はまるで石のようであり、その中でも磨けば光り輝く宝の如く。その水滴は正しく水で、彼女の身を預ける窓ガラス、そこからつううと流れるもの。ガラスに映る彼女の姿は、凭れる本体とまではいかず、けれど、やはり美麗である。
 名を、アネと言う。
 彼女は、今宵の標的。贄。常日頃より籠の中でピィチクパァチク囀り鳴くカナリアであったが、今、彼女はその囀りすら赦されない檻の中で、彼女の自由を待っていた。非常に受動的に。
 彼女に与えられた部屋には鍵が据え付けられて、中からも外からも簡単には開かないようになっている。部屋だけで事足りるだろう。今日は此処から出るでないよ。私は仕事に行くけれど、お前には屈強な護衛がついている。そうだろう? と、彼女の頭に手のひらの温もりを一瞬残して、お父様はお仕事に行ってしまわれた。娘を軟禁するよりも、自らが傍についていよう、とは思わないのだ。お父様もまた、能動的とは言えない。詰まり彼女の性格ははたして、どこから来たのか? だれも答えぬ問いかけである。彼女の世話を焼くメイドも、彼女を護る護衛も。
 よくある話であるけれど、アネの家は金を持っていた。アネに近づく者は総じて卑しい顔つきで、アネには興味がないのだ。と、父に言い聞かされて育った。アネに近づく者などいないような幼少の頃から。それは詰まり、けれどやはり、居たのだろう。アネが知らなかったというだけで。アネはその過保護、というには余りあるような父のある種の横暴さ故に、皆が行くという学校を知らない。知らずとも十六年、育ってしまえた。彼女は、自分がどんな人間なのかも知らぬ侭に、彼女として生きてきた。蝶よ花よと言われ手を尽くされたところで、蝶など触れたこともなく、花は花壇や花瓶に活けてあるそれらしか知らない。彼女に友達は居ない。ないないづくしの彼女が自ら持ち得るものは、実際そのアネという二つの音だけだ。そしてそれすらも生まれ持ち、生まれ落ちたわけではない。
 アネは、指先を伸ばして大理石の机上から一枚の紙を取り上げた。これは去ること一週間前、アネ宛に届いた予告状。否、恋文。若しくは、告白状。アネが初めて誰かから貰い受けた、簡素な手紙。一週間後の夜二十三時、アネを貰うよ。待っていて。
 一週間前アネが目を覚ますと、その枕元に安っぽい紙が一枚置かれていた。そこには粗野な字で、一週間後の夜二十三時、アネを貰うよ。待っていて、と書かれていた。
 私など、貰ってどうするのでしょうね。父に問うて、後悔したアネだ。彼女のあってないような自由は取り上げられ、普段も屋敷からそうそう出ないが、輪をかけて不自由。

「私など貰って、どうするのかしら」

 欲しいなら、差し上げるけれど。
 連れて行かないでとも連れて行ってとも願わずに、ただ為すがままに成るがままに。この聳え立つ、ラプンツェルめいた塔から、カナリアは飛び立つのか、堕ちるのか、それとも変わらず? もしどうしたい、と問われたら、返答に困る。だって、どちらでも構わない。
 迫る予告時間に、窓の外の漆黒はホーホーと鳴き、アネはなんとも不思議な気持ちに陥る。本当に来るのかしら? 気が変わったりしないかしら? もしかすると元より来るつもりはないのではないかしら? 枕元の手紙は、誰かのいたずら?

「どちらでもいいけれど」

 この手紙は、私だけのものだから。

 ゴォン、ゴォン、鳴ったのは十時三十分の金。高鳴るアネの鼓動は、限界だ。だって運動もしたことがなくて、他人は使用人とお父様のお友達しか知らないくらい。もし本当にいらしたら、私の心臓は、止まってしまうかも。
 コンコン、音がする。振り向くアネの眼前から、そこにあったガラスが、消えた。

「ちょっと早く着いちゃった」

 やあ、アネ、連れに来たよ。
 窓枠に降り立ち、笑う、娘。容貌が誰かに似ている。はて、誰だったろうか。遠くて近くて近くて遠い。嗚呼、驚いた、とても。

「心臓が止まるかと」
「大丈夫、止まる前に連れ出してあげる」

 漆黒は風に靡く。腰より長い髪は、外の闇と相俟って美しく、その唇から紡がれる名が、ああ、それだけでどれほど価値を持つか。

「白夜、私の名前だよ。さあ、行こうか」
「行ってしまったら、二度と此処には戻れません……ね?」
「いいや、戻る必要があれば」
「必要?」

 アネは窓枠の白夜に手を伸ばした。美しい、白魚のような手。それを、白夜は掴む。けれど、アネはゆるゆると頭を振った。

「私は貴女とは、行けません」
「何故?」
「私には決められない、ただそれだけです」

 遍値、と書くのだ。普遍の価値を持つように、誰からも愛されるように、私は確かに愛されていた。アネは、愛されていた。付けられた名の歪んだ程に。父は娘に価値を付けた。

「私は愛されている、だから、貴女を選ぶ、ことはできない。裏切れない」
「お父様を? 驚いた、アネはちゃんと意思があるんだね。でも、口だけ。だろ」

 決められないなら奪って行く。それだけだよ。
 裏切りたくてたまらないくせに、価値など付けられたくない癖に。

「いいことを教えてあげようね」

 私は魔女なんだ。
 顎が掬いあげられた。アネは、ラプンツェルではなかった。お父様は魔女に怯えていたのだ、なんて滑稽だろうか。アネには、お父様の命程価値はなかった。理解して、微笑む。

「それでも選べない」
「なら、奪うまでだ」

 アネを抱き寄せ、窓枠を蹴り上げる。跳躍した身体は一度宙を舞い、世界の法則に従って落ちた。不思議と、速度は遅い。

「お母様は亡くなったと聴いていました」
「でも、生きていた。不都合があるか?」

 いいえ、不都合など。

「世界は広く、美しい、だけですね」

 二人が宙から消えたとき、まだ屋敷に異変は起きていなかった。誰かが気付かなければ、異変は異変ではない。終わらない夜と、遍く価値は、微笑んだ。


 カナリアは、カラスにいだかれて。
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